八木雄二

トマス・アクィナスの主知主義は、自由決定が知性によって説明されるために、かれの死後ほどなくして神学者の間で問題にされた。 トマスによれば、知性は必然的に真理にしたがう。ところで、意志のはたらきは知性によって規定される、とトマスは説明する。つまり知性が判断したのちに、その判断にしたがって意志の選択がある。しかし、そうであるなら、意志の自由な決定を意味する「自由決定」は少しも自由ではない、という矛盾したことにならないか。これが問題となった。 たしかに神においては自由と必然は対立しない。自由の問題は「自己決定」の問題であって、「真偽」の問題ではないからである。 真理が必然的に決まっていて、人間がその真理にしたがうとしても、人間が自己決定においてそれにしたがうなら、自由は侵されない。しかし意志が知性の判断にしたがう以外ないとすれば、意志は知性の判断にしばられている。その知性は一般的真理にしたがってはじめて正しい認識がある。とすれば、精神の「自己決定」といっても、事実上、一般知性の判断にしたがうことでしかない。 。。。 この問題は天使の堕落問題において明瞭になる。なぜなら、天使においては知識に問題がなく、知識の理解にも問題はない。トマスによれば、天使の知性には生来的な知識が神によって与えられている。いうまでもなく、天使は人間とは比較にならない知的能力をもつうえに、身体性がない。したがって、身体的情動によって知性のはたらきが邪魔されることもない。ではなぜ、天使の一部であれ、天使は選択を誤り、堕落したのか。 天使の堕落によって悪魔が生じた理由は、神に背反する「自由決定」があったからだとしかいいようがない。しかし、トマスの説明を検討してみても、「自由決定」があるのは意志決定においては偶然が起こるからだ、ということでしかない。 しかしただの偶然なら、悪魔も天使もただの偶然の産物である。 じっさいトマスの説明には、可能性の説明はあっても、一方が善であり他方が悪であることの必然性の原因が、堕落が偶然に起こるときにどのようにかかわっているのか、その説明はない。堕落の出来事自体は偶然であっても、その堕落を引き起こしたのが悪魔自身であることを示す原因が指定されないのである。